この記事は、映画『仮面ライダー1号』(以降、映画本編と表記)の感想であり、ネタバレを含みます。まだ映画をご覧になっていない方は、ご注意ください。
この記事で言及したい主なポイントは以下の3つです。
1. 命を燃やすということ
2. アクションの出来
3. 現代社会批判
映画『仮面ライダー1号』とは?
突然街に現れたショッカー軍団。その狙いは謎の少女・立花麻由だった。突如始まるショッカーの仲間割れ……ノバショッカーを名乗る彼らの狙いとは……なぜショッカーは麻由を狙うのか……
争いを止めようとするが苦戦する仮面ライダーゴースト・天空寺タケル。その前に現れたのは、仮面ライダー1号、本郷猛だった。彼の強さに圧倒されたタケルは、麻由について調べるとともに、本郷に協力を求める。
テレビドラマ『仮面ライダーゴースト』とは?
主人公・天空寺タケルは亡き父のような偉大なゴーストハンターになるため、偉人や英雄*1について勉強をしていた。そんなある日、タケルはゴーストに襲われ、命を落としてしまう。謎の仙人の慈悲により、タケルは99日の仮初めの命と、仮面ライダーに変身する能力を得る。しかし、15個の英雄の眼魂*2を集めなければ、99日後には本当に死んでしまう。15個の眼魂を集めれば、願いが叶う。果たしてタケルは、眼魂を集め、無事生き返ることができるのか……?
『仮面ライダーゴースト』の1エピソードとしての『仮面ライダー1号』
この映画は、あくまで仮面ライダーゴーストの世界に本郷猛が通りがかるという体をとっている。つまり、あらゆるコンセプトは『仮面ライダーゴースト』(以降、テレビ本編と表記)という作品を基本にしているはずだ。テレビ本編でも、すでに生成された眼魂の魂が現代の「英雄」に乗り移るという形で、英雄が仮面ライダー達に宿題を出すことがある。つまり、偉人から学ぶというフォーマット自体はテレビ本編と同じである。テレビ本編との関連性や、そもそも特撮映画として、あるいは映画としての出来について思うところがあるので、書き綴っていきたい。
命を燃やすということ
映画本編における命を燃やすことに対する考え方は、テレビ本編と異なる。筆者の解釈では、テレビ本編における命を燃やすとは、夢に向かって希望を胸に突き進むことである。(「現代の◯◯」になるために、)悪魔に魂を売ったり、危険な行動を起こすことは、本編では、命を投げ出すことであるとされている。後者のような人に対しては、抱擁を行うことでその人の想いを肯定し、悪い心を浄化している。
一方、映画本編では、自分を犠牲にして誰かのために戦うことを命を燃やすことだとしている。本郷は、この歳になって、身体がボロボロになっても戦い続けていた。仮面ライダーゴースト・仮面ライダースペクターというそれなりに強い2人の仮面ライダーと出会ってもなお、彼らの弱さ・未熟さを見かねて、戦いの現場に戻ってくる。テレビ本編であれば、タケルは本郷の想いを受け止め、本郷の意志を受け継いで戦うはずである。しかし、本郷はまるで定年後再雇用のごとく復活し、熟練労働者としての腕を見せた。たしかに、タケルはマコトやカノンの命を優先して、自分の命を投げ出すことがあったが、他人が命を投げ出すことに関しては肯定してこなかった。ところが、映画本編は、労働に絡めて言えば、命を削って働くことを美徳としているのだ。それに対置する存在として、成果(電力)を横取りし、悪用するノバショッカーがいる。だが、たとえ貧しくても、命を削って世のため人のために働く存在として正義のヒーロー・本郷猛が存在している。映画本編がテレビ本編と異なる価値観を基にしているのは、明らかである。
アクションの出来
今回気になったのは、アクションの見せ方だ。一番気になったのは、ワイヤーアクションでビルから落ちるシーン。ゆっくりとしたモーションなので、空中で何かアクションをするものかと思ったが、特にアクションはしていなかった。ただスローで落ちているだけで、見栄えがしなかった。見栄えがしないというのは全体に言えることで、強そうに見えないパンチにSEとCGをつけて、強そうに見せるというカットが結構あったと思う。藤岡弘、氏を批判しているわけではない。藤岡氏も生身で戦っていた長澤奈央氏も、別に殺陣自体が下手なわけではないのだ。ただただ見せ方やカメラワークに問題があったと思う。せっかく1号がいるのだから、極力CGに頼らない見栄えのあるアクションをするのが正解だったのではないだろうか?
現代社会批判
これまでは映画への批判を書いてきたが、ここからはどちらかといえば評価すべきことに近い内容を書く。前の項目にも少し書いたが、この映画は労働について多く語っている。命を削って働くことを美徳としているというのは、前述の通りだ。本郷が工事現場で働いているシーン……野営をしているシーン……どちらも文明の利器に頼らず、自分の手で生を繋ぐシーンである。汗水を垂らして働いた成果として、食事や娯楽があると説いているのだ。一方のノバショッカーは、全国から電気を奪い、「新エネルギー」のために政府と交渉するということを机の上でやっている。この映画で正義側がやっていることからしてみれば、明らかに悪徳である。
一方で、本郷が命を削って働いているのを見ると、社会の闇を見ている気がしてならない。社会では、経験のない新卒よりも熟練労働者を好む傾向がある。取るに足らない作業は非正規に任せているが、それでは、いつまでたっても良質の労働者が育たない。本郷に頼るタケルはまさに熟練労働者に頼る企業(と若者)を表していて、本郷がいないと仕事が成立せず、会社や社会が破綻するのだ。
電気を失うシーンでも、現代社会の問題を感じ取ることができた。我々はモノや機械に頼りすぎている。モノを求めて争いが起こる。今回の争いも、眼魂を求めた結果だった。でも、機械がなければ、火も起こせないし、食事も作れない。車が使えず、移動や物の運搬もできない。だが、生活の主体はあくまで我々人間である。だからこそ、機械に頼って楽な生活をするのではなく、命を燃やさなければならない。
検討してきたように、『仮面ライダー1号』は、ゴーストとフォーマットを同じにしながらも、メッセージは正反対であった。命を燃やすとは、命を削って世のため人のために戦うことであった。だから、本郷猛は英雄として、ボロボロになっても戦っていた。本編を理解していないのか、あえて別のメッセージを流したのかはわからないが、仮面ライダーゴーストのファンとしては、褒められたものではないだろう。もう一つ文句を言うとすれば、アクションの出来が悪いことである。熟練した俳優がいるにもかかわらず、アクションの見せ方が拙かった。それをエフェクトで誤魔化しており、あまりいい気持ちはしなかった。一方で、映画として社会問題を多く盛り込んでいたことは評価できる。他人の成果を奪い、自らの力にしようとするノバショッカーと、自分の手で成果を上げ、生活を営んでいる本郷猛。本郷がボロボロになりながら汗水垂らして働くことは、熟練労働者に頼る持続可能でない社会を切り取った描写と捉えることができる。電気のない生活に苦戦するタケルたちは、現代のモノや機械に頼りすぎている社会を批判する描写である。
最後に、この作品を振り返ると、やはりきちんとゴーストの文法で書いた『仮面ライダー1号』が観たいと思った。1号の魂を受け継いだ麻由やタケルが戦う描写が欲しいと思った。ウルガが現代のアレキサンダー大王であるということを示して欲しいと思った。いろいろな都合でそんなものがもう観られないというのはわかっているが、記念作品であればもう少ししっかり作って欲しかったと思う。