『仮面ライダーゴースト』のテーマとは何か?
※この記事では『劇場版仮面ライダーゴースト』の内容には言及しませんが、趣旨について考えます。気になる方は、画面を閉じてください。テレビ本編未見の方を多少意識した記事なので、本編未見であっても問題ありません(ただし、本編のネタバレは含みます)。
- 命を燃やすとは、何かを成し遂げるために誠心誠意を尽くすことである。
- 魂と繋がることで、人は強く、優しくなれる。
- 食事とは、命を燃やして、魂と繋がることだ。
『劇場版仮面ライダーゴースト』は、劇場版でありながら、少しソフトなモチーフから展開されていく。食事をテーマにした仮面ライダーといえば『仮面ライダーカブト』があったが、『仮面ライダーゴースト』は食事がテーマのライダーではない。にもかかわらず、唐突に食事からストーリーが展開されて違和感があった。結論から言うと、食事は『仮面ライダーゴースト』のテーマと密接にリンクしているのだが、違和感を拭い去るには、一旦原点に立ち返る必要がありそうだ。この記事では、『劇場版仮面ライダーゴースト』を語る上で欠かせない仮面ライダーゴーストのテーマについて考えていく。
『仮面ライダーゴースト』とは?
『仮面ライダーゴースト』は、ゴーストハンターを目指す主人公・天空寺タケルが怪人・眼魔(ガンマ)に倒されながらも、仮初めの命で復活し、仮面ライダーゴーストとして戦う物語である。タケルは99日以内に15個の英雄眼魂(えいゆう・アイコン)を集めないと、本当に死んでしまう。15個の英雄の眼魂を集めるため、タケルは、幼馴染で科学に志す学生・月村アカリ、亡き父に代わり実家の寺を仕切る住職・御成、その弟子・ナリタとシブヤとともに、不可思議現象研究所として眼魔退治を始める。その途中で幼少期に行方不明になっていた幼馴染の深海マコトと再会し、人間のような姿を持つ眼魔の幹部・アランに出会う。タケルは眼魂集めを阻む彼らを止めることができるのだろうか?そして、無事復活できるのだろうか?
命を燃やす
仮面ライダーゴースト/天空寺タケルの決め台詞は「命燃やすぜ」である。これは、無駄死にするとか、死ぬまでやりきることではなくて、何かを成し遂げるため、誠心誠意を尽くすことである。第1クールでは、眼魔たちが「現代に生きる英雄」を邪魔していた。現代に生きる英雄というのは、歴史上の人物や空想上の人物などの偉大な功績を残した人や著名人を指す。眼魔たちは現代に生きる英雄たちの偉業を邪魔したり、彼らを洗脳したりして、英雄眼魂を生み出そうとしていた。英雄眼魂は英雄の心と力を秘めたアイテムで、仮面ライダーが変身に使うほか*1、15個集めると願いが叶うという機能がある。敵はこの機能を狙っていた。眼魔は現代に生きる英雄を死なせようとしていて(=表面的な意味での英雄にさせようとしていて)、タケルはそれを阻止するために行動した。この際、タケルは自分の(99日しかもたない仮初めの)命を顧みず戦っていた。誠心誠意を尽くす人のために誠心誠意を尽くすというのが、タケルの戦いだった。
魂と繋がる
仮面ライダーゴーストのもうひとつのテーマは、魂と繋がることだ。魂は繋がることで大きな力になる。2クール目以降、タケルは眼魂に込められた英雄の魂と心を通わせるようになる。それと同時に、仲間や不可思議現象研究所の依頼人とも心を通わせる。心を通わせることで、人は優しく強くなれるのだ。
英雄の魂と繋がるのは、15人の英雄の魂を合体させた力で戦う仮面ライダーゴーストグレイトフル魂の布石でもある。グレイトフル魂は、15人の英雄を召喚することができる。これにより、戦況を有利に出来るというわけだ。もちろん、それだけがメリットではない。英雄は、時に事件を解決させるヒントをくれる。例えば、リョウマゴースト(坂本龍馬)は、同じ目的を持ちながら対立する2人の仲を取り持つという課題をタケルに与えた。宇宙開発に関わる息子と人工衛星を作る凄腕エンジニアの父。父はある理由から協力を拒んでいたのだが、タケルとリョウマのおかげで、薩長同盟を組むことができた。この課題があったことで、タケルは、魂をつなぐことの重要性がわかったのだった。魂をつなぐことは仮面ライダーゴースト特有のパワーアップ方法ではないというわけだ。
ご飯が食べたい
仮面ライダーゴーストでは、食事が生きることの象徴となっている。テレビ本編では幾つか食べ物が出てきているが、一番大きく取り上げられたのが、たこ焼きだ。たこ焼きは、仮面ライダースペクター/深海マコトの妹・深海カノンが好きな食べ物だ。アランはその人間の食べ物に興味を持つのだが、食べなかった。当時のアランは眼魔だったので、精神と肉体が分離されていた。精神だけの状態だったので、食べられなかったのだろう。アランはあることをきっかけに生身の身体になり、その不思議な形の食べ物の味を知ることとなる。
同時に、アランはそのたこ焼きを焼いていた屋台の女性・フミバアとも交流することになる。フミバアは、生きる上で大切なことをアランに教えてくれた人で、アランにとって、たこ焼きという食べ物の記憶と密接に繋がっている。しかし、それを作っていたフミバアが亡くなってしまった。フミバアが亡くなったことで、アランの中で、たこ焼きという食べ物が生きることと密接にリンクするようになった。言い換えれば、たこ焼きが食べられるのは生きているからであり、たこ焼きを作ってくれる人が生きているからなのだ。食事は人が魂を燃やして作るもので、人の魂を繋ぐものでもある。そういう意味では、ご飯というのは仮面ライダーゴーストの中心にあるテーマなのかもしれない。
魂は死者のものではない
こうやって振り返っていくと、劇場版で触れられている『仮面ライダーゴースト』のテーマは、本編で触れられているごく自然なものだった。ご飯が食べたいというのは、魂を燃やすことと魂を繋ぐことに密接に関係していて、意外とテレビ本編とマッチしている。
ご飯を食べたいというその切実な願いは、一見、死者の魂の嘆きに近いものがあるかもしれない。だが、ご飯によって命を燃やし、魂を繋いでいるのは紛れもない生者である。食べるという行為においては、魂は生きている人のみのものになる。死者は残念ながら、食事という行為において魂を介在させることができない。今後、テレビ本編でタケルがご飯を食べられるようになるのかに注目したいところだ。
*1:基本の姿から姿を変えるフォームチェンジに使用される。ビリー・ザ・キッドのように独自の武器を持つものと卑弥呼のように独自の力を持つものがある。2クール目以降、眼魂に宿る英雄が天空寺タケルに話しかけるようになる。英雄眼魂自体は、英雄のゆかりの品と現代に生きる英雄の心によって生み出されるもので、歴史上の英雄とは少し違う存在である。