キャラクター愛が歪んでしまっていないか?
最近、ワイドショーで取り上げられるようになってきた応援上映。応援上映は、観客がペンライトを振ったり、声を上げたりして、劇中のキャラクターを応援できるという映画の上映スタイルです。それで、以前からこのブログや私が執筆している別のブログで話題にしているのが、応援上映におけるマナーです。
中でも、特定のキャラクターに対して罵声を浴びせる人がいることを強く懸念しています。劇中で失敗ばかりして努力が報われないキャラクターに対して、「仕事しろよ」と言ったり、友情があなたの力を10倍にも100倍にもするのだと説いた人に対して、「ちゃんと計算して」と言ったりする人がいます。本人は愛のムチだと思っているのかもしれませんが、私を含め、一部のファンは心を痛めています。愛は人に魅かれた時に抱く感情であり、人の魅力を正しく理解した時に生まれるのです。
そこで、今回は(時にSNSや応援上映を媒介して表現される)アニメのキャラクターに対する愛の向け方について考えたいと思います。
キャラクターの恋愛
キャラクターへの愛とは、キャラクターに恋愛感情を抱いてそのキャラクターを独占することでしょうか?
子ども向けアニメの少女キャラクターに優しくする男性キャラクターに嫉妬したり、強く非難するコメントを書き込んだりするネットユーザーは珍しくありません。その人の恋愛対象は女性(もっと言えば、好みの女性は彼女)なのでしょうが、その少女があなたに気を向けるとは限りません。それに、もしその少女が恋愛をしたとして、あなたはそれを否定してまでその少女に一方的な愛を向けますか?愛とは、相手が自分のものであれと願うことではありません。
日本の男性が女性の父親に対してする伝統的な婚約の挨拶に「娘さんを僕にください」がありますが、これも女性を所有物であるとみなしていると思います。本当のキャラクター愛は、そのキャラクターが男性であれ、女性であれ、Xであれ、その恋愛対象が誰であれ、その人の人生を応援することなのではないでしょうか?
もうひとつ異常に思えるのは、「私は同性同士の絡みが見たいのであって異性のキャラクターは要らない、拒絶する」という人々です。断りを入れておきますが、私は同性愛者を否定する気は毛頭ありません。私が否定したいのは、異性の絡みを表現した表現者に対して、「私は同性の絡みが見たいのだ」と訴えて非難する人々です。同性愛を肯定するアニメを新しく作ってほしいというのであればわかりますが、「お前の表現する恋愛は同性愛であるべきだ」と釘を刺すのは少し違うと思います。
キャラクターの結婚
2人のキャラクターの困難の果実として結婚がある、という考えは肯定すべきだと思います。つまり、2人が困難を乗り越えた先に、2人が結ばれるという結果が待っていることは何らおかしくありません。
これも日本人の悪い癖ですが、男性と結婚したり、付き合ったりした女性を「中古」と呼ぶ人がいます。これは、発言者にとって愛の形が性交しかないというのを生々しく切り取った言葉でもあります。結婚してもなお木村拓哉や福山雅治が愛されるのは、本人に人間としての魅力があるからだと思います。それと同様に、人間としての魅力に魅かれ、その人を愛することは、恋愛とは別の次元で認められるべきだと思います。言い換えれば、2人の人間が結ばれる愛と人間が人間に向ける愛は別々のものとして扱われるべきです。
結婚とキャラクター愛の両立
例えば、プリティーリズムというアニメでは、フィギュアスケートの特訓のために友達と恋人を捨てた少女が、おぞましく変貌してしまいます。その少女には、幼少期に失踪したスケーターの母が成功させた幻の技を再現することで、失踪の真実を知りたいという想いがありました。そうした経緯*1があり、やっとの思いで母の技を成功させた少女は、自分の心の支えであった恋人と結婚します。ステージで結婚を公表した際、残念ながら観衆は大いに怒ります。2人はスケーターでもあり、人気アイドルでもあったためです。しかし、祝福の気持ちを思い出すと、ファンたちは2人を応援し、この少女も結ばれた幸せをスケートで表現するようになります。アニメを見ていてその少女に想いを寄せる現実世界のファンも、その少年を恨んではいません。
無意識のキャラクター愛
困難の果実として結婚があるというパターンの優れている点は、視聴者の中に無意識のうちにキャラクターへの愛を芽生えさせ、キャラクター同士の恋愛と視聴者のキャラクターへの愛を両立させることです。
『レディジュエルペット』では、世界を救う男女のペアとして勇敢に戦い、戦いの果てに記憶を失った少年と少女が最後には結ばれます。特に、少年は本来、天涯孤独でした。悪者によって、大切な妹がいるという偽りの記憶を植え付けられ、人形から生まれた偽りの妹を愛してきたという経緯を持ちます。ヒロインの少女は、最初は彼に助けられてばかりでしたが、努力を惜しまず、彼のパートナーとして見合う存在に成長してきました。この2人はこの国の女王と王配を選ぶための試練をくぐりぬけてきましたが、戦いによって記憶を失い、レースからドロップアウトしました。しかし、記憶喪失の中でも、2人は必然のごとく再び巡り会い、結ばれます。偽りの妹は、少年を恋愛対象として愛していましたが、2人の結婚を祝福しました。しっかりとした根拠づけがあれば、恋愛は多くの人にとって肯定しうるものに変わるのです。
あなたがキャラに向ける感情は愛?
応援上映に話を戻しましょう。応援上映では、キャラクターに対して歪んだ愛を叫んでしまっているケースがありました。キャラクター愛がキャラクターの魅力に対して抱く感情であるならば、一方的であっても成立するし、相手が恋愛をしていようが、結婚していようが関係ないだろうというのがここまでの議論でした。裏を返せば、キャラクターの魅力を誤解し、あるいは理解していないというのが、歪んだキャラクター愛を叫んでいる人の特徴になります。
キャラクターに対する穿った見方
大人の子ども向けアニメを見る姿勢にありがちなのが、穿った見方です。多くの視聴者は、あるキャラクターに対して面白い描写があった場合に、そのキャラを「ギャグキャラ」として認定し、あらゆる人権を奪います。その後、そのキャラについてどんなにシリアスな描写があっても、それをギャグとして認識する人はいます。「お茶目なところも愛しい」と肯定的に受け止めれば愛になりますが、「◯◯さんが今度は××しやがったぞ」と嗤うことは必ずしも愛とは呼べません。
そうならないためには、その人が辿ってきた道程を思い起こしましょう。その人にはどんな過去があったのでしょうか?あるいは、その人の過去は語られていたのでしょうか?その人がシリアスだったことに、あるいは、コメディを始めたことに理由はないでしょうか?そのキャラについて真剣に思いを馳せれば、自然とそのキャラに愛着がわき、そのキャラに対して持っていた穿った見方を排除することができます。もちろん、そのキャラクターが発した迷台詞を楽しむことは否定しませんが、その迷台詞だけをもってそのキャラクターを語るのは、視野が狭すぎると思います。
そのキャラクターは本当に嫌な奴か?
子ども向け番組に限らず、嫌な奴だと思っていた人が実はいい人だったり、その人と他の人が魅かれ合ったりする展開はありがちだと思います。人が変わっていくことを考慮せず、あるいは、その人が変わってしまったことを考慮せず、人を悪者扱いして叩くというのも、キャラクターに対する間違った見方だと思います。特にアニメでは、悪い奴だと思っていたライバルが実はとてもいい子だったという描写は頻出です。その子に罵声を浴びせるのは、大人のアニメの見方ではないと思います。
先ほどのプリティーリズムでは、家庭環境を描くことも多く、子どもに間違った愛の注ぎ方をしてしまっている親が描かれます。その親は、子どもが一生懸命リンクを滑る姿を見て、心を入れ替えていくのですが、そうした親に対する見方が根源的な絶対悪を見る目になっている視聴者も多いです。悪事を働いた人を徹底的に叩く日本のムラ社会的風潮がアニメにも及んでいると考えることもできますが、真っ当な大人であれば、そうなったコンテクストや彼らの行く先にも想いを馳せてほしいです。
このように、愛とは言えない感情を愛と錯覚している人はいると思います。応援をするのは、キャラクターに想いを馳せてからにしていただきたいというのが、応援上映実施作品の1ファンとしての願いです。
(2017/6/17 一部の表現を修正しました。)
*1:説明が混線するので書いていませんが、おぞましく変貌した少女を救ったのは少女の友人でした。でも、技自体は自分自身で決めています。