作家を傷つけない「実質プリティーリズム」はないのか?
現在、「実質プリティーリズム」という言葉が公式から苦言を呈されているようだ。他作品に対して共通点・類似点を見出し、「実質的にプリティーリズムのようなものだ」と言う行為は、プリティーリズムと比べられた作家への侮辱に当たるというのである。
「実質プリティーリズム」の本質
しかし、作家目線で「実質プリティーリズム」という言葉を一律に禁止してしまうのには、違和感を禁じ得ない。なぜなら、「実質プリティーリズム」はクリエイターではなくユーザー目線の言葉だからだ。ユーザーは「プリティーリズム』と同じように面白い、感動できる作品を求めているにすぎない。言い換えれば、「実質プリティーリズム」はプリティーリズムを観た人・プリティーリズムと類似する作品を観た人への提案なのである。
※プリティーリズム
年頃の少女たちがフィギュアスケートをモチーフにした架空のスポーツを通じて、友達や家族と心を通わせながら、高みを目指す物語。その中の少年キャラクターたちに注目が集まり、『KING OF PRISM by PrettyRhythm』として映画化。今週末からは続編にあたる『KING OF PRISM Pride the Hero』も公開される。
3つの目線
そもそも、作品をいかに広めていくかという問題の背景には、主に3つの目線があるように考えられる。すなわち、消費者・業者・作者の目線だ。この三者は全く別の思考(指向)を持っている。そして、彼らの要求を満たす存在として、作品が存在するわけだ。ここでは、この三者の目線がどういう存在かをそれぞれの課題を交えつつ、記述していく。
ユーザー目線
消費者は「心の栄養」に富んだ良質の作品を求めている。(こう表現するのも変だが、)それは自分のニッチな需要を満たすような作品だ。そのためには、自分と似た好みを持った他者と触れ合う小さな機会が必要となる。言い換えれば、消費者の一部は特定クラスタと広く深く繋がることを求めているのだ。そのクラスタの中で、作品を教えてあげたい人と教えてほしい人が繋がりあう。
この営みは、今のところ人工知能によって代替することはできない。人工知能は作品を見たユーザーの感想を統計することはできるが、作品を見て感想を持つことはできないからだ。こうした論理化できない感動をより多くのものから得たいというのがユーザーの願いである。
ビジネス目線
一方で、業者は効率的に価値を生み出すことを求めている。業者はニッチな需要よりは、まだ開拓できていない消費者の意外な需要を満たしたい。それは社会の中で埋没していた事実を探すところから始まる。これは人工知能の得意分野かもしれない。話を戻すが、業者はビジネスの主体なので、感動ではなく売上を求めている。つまり、意外な需要を狙って購買層を多様化し、拡大したいのだ。
彼らのビジネスの中では、良い作品を教えてあげたいという個人的な感情や、何が何でも売りたいという大人の事情、つまり、売りたいという欲求はなるべく排除されなければならない。そうしなければ、需要を正しくとらえ、売上を伸ばすことはできないだろう。
クリエイター目線
クリエイターは両者の欲求を満たす必要があり、板挟みになっている。消費者の「心の栄養」を供給するだけでなく、業者の利益になる作品を作らなければならない。それに加えて、本人たちにも作品を評価してほしいという欲求がある。つまり、オリジナリティも追求しなければならないのだ。そのためには、規制や約束を打破し、表現を多様化する必要がある。彼らにとって、他作品との類似性を指摘されたり、求められたりすることは侮辱に他ならない。いずれにせよ、作者は消費者と業者の間に立ちつつも、個性を発揮しなければならないという険しい立場にある。
ユーザーに作品を提案するということ
今回の「実質プリティーリズム」はユーザー目線の言葉なので、ユーザーがどういう風に作品を提案されるかについて考えたい。前述の通り、ユーザーは自分の「ニッチな需要」を満たすような作品を探している。それは、業者が求めているような意外な需要とは大きく異なる。詳しくは後述するが、企業が今注目している人工知能のサジェストは主観を排除しているのだ。
一方、人間の思考は主観を元に、「私はこれが好きだから、あなたもきっとこれが好きだ」という非論理的な提案を行う。もちろん、人工知能も論理もへったくれもない思考をすることがあるが、囲碁や将棋における人工知能と人間の対戦を見る限りは両者が異なることは明白だろう。
私はここで人工知能と人間どちらが優秀かという話をしたいのではない。提案という行動においては両者のやり方は全く異なり、優劣をつけづらい。よって、順位をつけることはできない。そうではなくて、神が作った人間の知能、すなわち「神工知能」のサジェスト機能について考えたいのだ。
人工知能とは
人工知能は機械学習や深層学習によって、一見関係なさそうな事柄を関係付けることができる。それは例えば、いつ風が吹くかといつ桶屋が儲かるかという2つの異なる統計の関係づけである。これを利用することで、桶屋が儲かる日を予測できる。静止画や動画から被写体のことを学習することもでき*1、人工知能は学習能力では人間をすでに超えている。
一方で、映像作品から類似点を見出す行為においては、神工知能と異なる方法をとる。それは、文字情報や映像から表面的な共通点を見つけ出すというやり方である。これにより、例えば検索して出てきた犬の画像とよく似た犬の画像、または検索したユーザーが好みそうな全く別の画像を表示することができる。これは人間にはできないやり方だ。なぜなら人間はネット上にアップロードされた犬の画像を、いわんや全ての画像を把握することはできない。
こうした提案の仕方は人を驚かせはするものの、事実から推論された客観的な結果だ。別に「このチワワの画像はあのブルドッグの画像のパクリだ」と言っているわけではない。したがって、作家を不快にさせることはない。
神工知能とは
一方、神工知能は感覚によって学習して、関係ありそうなものを繋げる。それは例えば、「◯◯という作家の本が好きなら、××という作家の本も好きかもしれない」という論理的・統計的根拠に欠ける推論だ。
こうした提案は、提案者が文体やストーリーの方向性などの内容が似ていると感じるから行われるのだろう。提案者は何千何百のデータから相手の傾向を学習(または類推)したわけでもなく、相手は当然それを好むだろうと直感している。そもそも、似ていると判断したのは、文を一字一句分析して一致率を調べたわけではない。読んだ感想として、似ていると思っただけだ。
このような提案は作家にとっては不快極まりないだろう。なぜなら、他と似ていると評することでオリジナリティを否定しているからだ。評価基準も客観的でなく、ただ似ていると感じたに過ぎない。消費者と業者の板挟みに遭いながら一生懸命考えたストーリーが自分独自のものではないと分かったときの作者の気持ちは答えようもない。
許される「実質プリティーリズム」は?
だが、ここで一度立ち止まらねばならない。このサジェストはユーザー目線の、ユーザーに対するものだったはずだ。本来であれば、外野であるはずの業者や作者にとやかく言われる筋合いはない。では、なぜこうなったかといえば、「実質プリティーリズム」という言葉が、作者にとって暴力性を持つ言葉であるにもかかわらず、全人類に向けられていたからだ。ということは、勧めたいという気持ちを真摯に示した無害な言葉であれば、許される可能性が高い。
ここまでで出てきた許される表現といえば、人工知能によるサジェストである。つまり、「関連作品」「この作品を観た人は次の作品も観ています」のように、誰の失礼にもならない事実らしい表記をすればよいのだ。そうすれば、よい作品をオススメされた気分になり、不快感も覚えづらいだろう。ユーザー対ユーザーの言葉を業者や作者が受け取っても不快感を覚えない。これが理想の「実質プリティーリズム」表現である。
まとめ
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*1:松田卓也『2045年問題 コンピュータが人類を超える日』「4章 人工知能開発の最前線ー意識をもつコンピュータは誕生するか」より。
GoogleはYouTubeを使って、人工知能に膨大な数の猫の動画を学習させた。その結果、人工知能は一般的な猫の顔を描画した。この人工知能は学習によって猫という概念を「発明」したと言える。
In a Big Network of Computers, Evidence of Machine Learning - The New York Times