続編をコレジャナイという人たちへ
アニメや漫画などで、作者が変わることがある。
作者によって、作風が大きく変わることも考えられる。
それについて、「これは私の愛した◯◯ではない」と怒る人がいる。
たしかに、短期的にはファンが求めるものを作ったほうが儲かる。
しかし、原作や1作目との類似性をもって、作品の良し悪しを判断すべきだろうか?
スタッフロールに監修が〜子ども向け番組もリアルの時代〜 - ホビーアニメを観ていたらいつの間にかアホになっていた
多様な作風
1つの作品が長期シリーズ・大型コンテンツ化するためには、多様な作風が容認される必要がある。
つまり、多くのクリエイターがさまざまな方法で作品を表現するのだ。
上に挙げたような「保守的」な考えは、ときに本当の保守ではない。
むしろ、作品を長続きさせる上で障害になりうる。
この記事では、そうした障害に言及しつつ、長期シリーズ化に必要なことを挙げていく。
多様な設定がないとシリーズが続かない
作品が長く愛されるために、多様なテーマやキャラクターが求められている。
1作目の背中を追い続けることが、その作品にとってよいこととは限らない。
5年に1度ぐらい原点回帰してもよいとは思うが、毎年第1作と同じものを見せられても、面白くはない。
それに、ビジネス的にもふさわしくない。
保守的な大人のファンからすれば、1年目のおもちゃが2年目以降も同じように使われることが好ましいかもしれない。
でも、似たようなおもちゃを売ったら、「同じものを買ったでしょう」とおうちの方に言われるのは目に見えている。
「ふたりだけがプリキュア」なら15年続かなかった
プリキュアが15年続いたのは、途中から毎年モチーフとキャラクターを変えるようになったからだろう。
毎年2人体制でやっていれば、単調になり、おもちゃや遊びのバリエーションも増えなかった。
偶然売れた初代の背中を追い続けるアニメは、どうせ初代の熱狂的なファンにしか売れない。
原作や第1作に忠実に従った作品を毎年作っても、つまらないし、儲からない。
「ウルトラマンは武器を使わない」という思い込み
一方で、作品の一側面を切り取って、「これこそ◯◯の真骨頂」と思い込んでいる人もいるかもしれない。
つまり、自称・熱狂的なファンが「こんなの◯◯じゃない」と不満を漏らしているが、実は原作の要素だったということもありうるのだ。
例えば、「最近のウルトラマンは武器を使っていておかしい」という人がいる。
でも、実際にはシリーズ3作目の『ウルトラセブン』はアイスラッガーという武器を使う*1。
たしかに、ウルトラマンは素手格闘や光線技も魅力的だが、昭和のウルトラマンは武器を使わなかったというのは、思い込みだ。
[rakuten:doraya:10009886:detail]
最近のシリーズでは、初回放送の前に紹介番組が組まれ、過去のウルトラマンにも同様のモチーフがあったことを明示している。
例えば、新しいウルトラマンが特徴的な武器を使う場合、ウルトラセブンも武器を使っていたのだと紹介する。
おそらく円谷プロダクションにとって都合が悪いのは、そうした凝り固まった考え方で現行作を否定する人々だろう*2。
そういう人の多くは金を落とさないので、気にする必要はないとは思うのだが。
1つの作品にもさまざまな要素がある。
新しい要素だと思い込んでいるものが、実際には古い要素だったりする。
1人のクリエイターだけでは盛り上がりに欠ける
長生きするコンテンツは、たくさんの人によって作られている。
大前提として、作品の方向性は会議によって決まるのであって、プロデューサーや脚本家が全部を決めるわけではない*3。
それに加え、サブカル業界は漫画を作ったり、小説化したりとさまざまな方向性で作品を展開する。
一部の作品では、テレビアニメの方向性やキャラ付けが決まる前に、漫画化のプロジェクトが動いているかもしれない。
結果として、漫画とアニメで作風や展開が違うことがある*4。
あるいは、同じアニメでも、週によって画風や構図が異なったりする。
脚本家によって、台詞回しに個性が出ることもある。
これは多くの人に作品を愛してもらう上で必要なことだ。
1人のクリエイターによってのみ作られた作品は、作者が死んだ瞬間に死ぬ。
複数のメディアによる柔軟な展開もできないだろう。
だから、多くの人がさまざまな作風で同じコンテンツを作っていく。
作品が長く愛されるためには、多様な媒体と多様な作風が必要だ。
そのため、1つの作品を1人だけで作るのは難しい。
1人で担当しているというのは思い込み
とはいえ、同じ脚本家がほぼすべての話数を担当するという作品もある。
どの程度分担するかは、作り手の自由なのだ。
でも、そういう作品は1年ものではなかったり、長期シリーズであれば、毎年脚本家を変えていたりする。
あるいは、オーディオドラマやスピンオフを担当するサブの脚本家がいるかもしれない。
中には観察眼が鋭く、他の人の本の特徴をうまく自分の本に組み込める脚本家もいる。
そうした事情から、一見1人のクリエイターが作っているように見えても、実はたくさんの人が作っているという作品は多くある。
現実にはAさんの脚本が印象に残っているだけで、Aさん以外の人も参加していたりするのだ。
1つの役割を1人が担当しているように見えても、実際には多くの人が担っている場合がある。
ひとつの作品でも要素はたくさん
作品のあり方はひとつではない。
いろいろなモチーフ、キャラクター、スタッフなどが組み合わさっている。
ひとつの要素を神格化する風潮になれば、そのコンテンツの死は近い。
多角的な視点から作品を見ることが重要ではないだろうか?
一方で、もともとの要素に付け足して、新しい要素を作っていくことも重要だ。
原作の要素を重箱の隅をつつくようにオマージュしていくだけでは、作品はチープなものになってしまう。
ファンには古いものを尊重しつつ、新しいものを拒まない姿勢が求められている。