友情、努力、勝利、仕事、奇跡
今更ながら、応援Bookのインタビュー部分を拝読した。応援Bookのインタビューは、本自体のページ数が多いこともあり、パンフレットや公式設定資料集よりも量が多い。他のインタビュー同様、各スタッフの役割や仕事内容がわかるように書かれている。菱田正和監督も、こなしているほぼすべての仕事に言及しているし、各スタッフのインタビューに関しては、他のスタッフやキャストへの想いについても紙面が割かれている。各氏インタビューの表紙には公式設定資料集ではなかったスタッフのグラビア(!?)写真がついている*1。本のサイズ、フォントが異なるので単純に文量が増えた、減ったとは言いづらいが、より満足できる内容であることに間違いはないだろう。このインタビューからはスタッフのプリティーリズムへの愛、菱田監督への愛が強く感じられる。
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まず、菱田正和監督は、監督としてプリティーリズムという作品をどのようにしたいのか(したかったのか)を熱心に考えている。脚本の青葉譲氏は、作品を観てくれる「人類」をどのように増やしたのかを語っていた。絵コンテの日歩冠星氏は、やりたい話を60分に詰め込むために苦労したようだ。また、演出の菱田マサカズ氏は作品を応援上映用にどのように盛り上げるか、あるいは、迫力ある男子プリズムショー(界)をどう描くかに苦心したようである。次に、キャラクターデザインと作画監督の松浦麻衣氏は、女性、あるいは、作品を観てくれるであろう若い女性の立場に立ち、菱田監督の視点を補っていたようである。西浩子氏は配給会社のエイベックス・ピクチャーズのプロデューサーとして、観客が面白いと思う作品を作るにはどうすればいいかについて考えており、依田健氏は、製作会社のタツノコプロ側のプロデューサーということもあり、いかに製作サイドの無駄を省くか、予算内でどのように仕事をしていくかということをよく考えていた。順番が前後するが、プリズムショー演出の京極尚彦氏は、プリズムショー演出の仕事を詳しく説明し、女子と男子の違いや、男子プリズムショー演出特有の裁量権についても、話していた。
いずれのスタッフにも共通するのは、菱田監督やプリティーリズムという作品が好きだからやっているということである。お金にならない段階から色々なスタッフが(飲みニケーションというインフォーマルな形とはいえ、)関わっている。一部の女性スタッフが自分の欲望のために暴走したわけでは決してない。応援上映に関しても、現在の応援が必ずしも悪い方向ではないのだという風に言われている。もちろん、行きすぎた迷惑行為があることは本人たちも認識しているのだろうが*2、映画と対話する形式の応援については否定しているわけではないようだ。愛が感じられる行為で、他人に著しく迷惑をかけないのであれば、許されると考えているのだと思う。
「応援上映そのもの」ではなく「キンプリの応援上映」を
私自身として哀しいのは、各メディアの応援上映特集が、キンプリという特殊性を離れ、「普遍的な映画」においてそれが行なわれているように印象付けられていることだ。プリズムショーやプリズムジャンプが持つ機能性(依田プロデューサー談 *3より)、私たち観客が持つプリティーリズムや製作陣への感謝の心、崖っぷちで作られたこの作品を応援したいという気持ちが応援上映を形作っているのであって、ただ単に声を出してワイワイ楽しむだけの上映ではない。だからこそ、作品の品位を傷つけるようなコールやキャラクターを悪く言うヤジが許せないのだと思う。たしかに想いの強すぎる古参ファンの勧誘は好ましくないかもしれないが、「応援上映そのもの」を愛する前に、キンプリやプリティーリズムを愛してほしいと思うのだ。
仕事を理解したい
それから、他の記事でも指摘したが、特に(任意の)作品を批判したい人が、自分の想像を元に、「◯◯担当の××が△△をした(せいで作品がつまらなくなった)」などと指摘することがある。しかし、その多くが本当は担当箇所ではないという意味で的外れであったり、仕事にかこつけた人格攻撃だったりする。そもそも、我々はアニメ制作のすべての仕事を理解しているわけではない。本当に作品のためになる批判をしたいのであれば、このようなリソースからしっかり情報を得てから建設的な批判をすべきである。建設的でなければ、それは攻撃にすぎないのだ。
それは神の御業か?
同時に、今回感じたのは、必ずしもコンテンツを作るという行為が神の御業ではないということだ。コンテンツは意図せぬ化学反応や超新星爆発の連続である。例えば、もし菱田監督が神だとして、菱田監督(神)が思い描く「不良」をそのままデザインしていたら、香賀美タイガのような不良は生まれなかった*4はずだ。松浦氏は、菱田監督の「不良」に水素水でも加えて、化学反応を起こしたのだろう。それは松浦氏のアイディアによって作り変えられたから出来上がったのであって、先導者は完全ではないのだ。
あるいは、今の応援上映が制作陣の意図を超えて発展したこともコンテンツが神の御業ではないことの証明だ。神業のように周到に計画されていたならば、観客は制作陣の思い通りに動くはずで、シンのカバンの置き引きを心配する観客などいなかったはずだ。応援上映の発展は偶然が生んだ奇跡であって、神の手によるそれではなかったのだ。
そして、キンプリのヒットは約束された結果ではなく、努力によって得られた果実である。飲み屋から始まった企画はプロデューサー陣の努力で仕事となり、日歩冠星氏やプロデューサー達の努力で節約と面白さの絶妙なバランスが確保された。それから、劇場は閑古鳥になってしまう(=失敗しかける)訳だが、熱心なファンの献身によって、半年近いロングランに漕ぎ着けたのである。筆者は、キンプリの街頭CMやアドトラックが税金対策ではないかとネットで指摘されていた時を覚えているが、今では、今だからこそ、輝かしい功績の一つになっている。もしかして、キンプリが失敗していたならば、本当に税金対策として歴史に刻まれてしまっていたかもしれない。だが、努力して成功を勝ち取ったからこそ、ひとつひとつの宣伝やイベントが鮮やかな思い出として我々の心に刻まれているのだと思う。
今こそ愛を
スタッフはプリティーリズムを愛していたから、キンプリを作ったのだ。ただの商魂しかないならば、これほどリスクの高い作品は作らないはずである。かといって、欲望だけでこの作品を作ったわけでもない。それを理解せずに批判するのは問題だし、愛のない野次を連発する行為も、みんなで作った愛の結晶を壊すことにつながりかねない。なぜこの作品があるのか、どうして今まで上映が続けられてきたのかをよく考えることが、みんなが笑顔で作品に向き合えるようになるためのヒントになるのだろう。そこにある愛に気づいたときにこそ、「世界が輝いて見える」はずだ。